エチオピア料理を食べる場所がなかった
「エチオピアから最も遠い国に行ってみたい」との思いから、留学をきっかけに来日したソロモン氏。東京で暮らすうち、自分で食事を楽しむ場所がないと感じたことが、エチオピア料理店を始めるきっかけになったという。
「私が来日した1980年代は、どこにもエチオピア料理を食べられる店はなく、アフリカ料理自体がほとんど知られていませんでした。それならば自分でなじみのある東京でお店を始めようと思ったんです」
ソロモン氏は店を開いた経験はおろか、料理人としての経験もなかった。そこで、都内にあるエチオピア大使館の駐在員たちに料理を教わりながら、祖国の味を表現することに尽力した。そして1990年、クイーンシーバを開店。店名は、エチオピア王国誕生の神話に登場するシバの女王に由来する。
「シバの女王は国の誇りや伝統を象徴する存在でもあり、歴史を感じさせる名前です。自分で決めたわけではないけれど、今ではすっかり気に入っています」
外国人から日本人へ広がったエチオピアの味
開店当初、来店するのはほとんどが外国人客だった。欧米ではエチオピア料理が比較的知られているため、その味を求めて訪れる人も多かった。一方、日本人客はわずか数人程度。食べる前から、エチオピア料理のスパイスや発酵の香りに抵抗を示す人も少なくなかったという。
しかし、外国人客の口コミが広がり、日本人の来店も徐々に増えた。その背景にはSNSの普及があり、現地の文化や食を自ら調べて試す人が増えているとソロモン氏は言う。
「昔はテレビくらいしか情報源がありませんでしたが、今は自分で好きなものを探せる。特に若い人たちの視野が広がっていて、エチオピアの料理や文化を好んで来てくれる人が多く、今ではお客さんの7割が日本人の方たちです」

日本人向けに味を変えない理由
クイーンシーバの料理は現地のそのままの味だ。辛さや香りを日本人向けに調整することもない。ソロモン氏がかたくなに母国の味を守るのには理由がある。
「現地の味を知らないからといって日本人の味覚に合わせてしまうと、その場だけのものになってしまう。エチオピアの魅力や文化を伝えるためにも、本当の味を知ってもらいたいんです」
店で提供されるエチオピアの伝統的な主食「インジェラ」もその象徴だ。インジェラとはイネ科の穀物テフを発酵させたクレープ状のパンで、独特な酸味があり、日本人にとっては珍しい風味で驚きを感じる人も少なくないという。しかし鉄分やカルシウムが豊富で、ヘルシーさも兼ね備える。ソロモン氏は現地そのままの味を提供することで、エチオピアの食文化の奥深さを伝えている。

また、インジェラに合わせる料理は煮込みが中心で、味の決め手はスパイスにあるという。
「エチオピアのスパイスは、日本の味噌のように深い味わいです。一つひとつ、何種類ものスパイスを混ぜて時間をかけて作っています。だから簡単に日本人向けに変えることはできないんです」
ソロモン氏は毎年エチオピアに帰国し、現地のスパイス工房を訪ねて調達を行う。単にスパイスを買うのではなく、職人にブレンドを依頼し、自分の店の味に合わせて仕込んでもらっているという。
「市販のスパイスでは、うちの味は再現できません。エチオピアでスパイスを焙煎(ばいせん)して粉にして、さらに寝かせて深い香りを出してもらう。日本の味噌や醤油みたいに、手間も時間もかかるんです。そうしないと、本当のエチオピアの味にはならないんです」
そして、ソロモン氏が東京で伝えたいエチオピア文化は、決して料理だけにとどまらない。音楽や芸術もまた、大切な文化の一部だという。
「踊りや音楽は言葉を超える文化そのもので、料理以上にアフリカを知る手がかりになるんです。コロナ禍前まではアフリカの伝統楽器の演奏やイベントを毎週開催していたんですが、今は一時中断中。店内のモニターでアフリカンミュージックやライブ映像を流していますが、またいつか生演奏やイベントを再開したいと思っています」
ソロモン氏がエチオピアで買い付けた絵画や楽器などが並ぶ店内
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ランプや装飾品などが異国情緒を演出してくれる
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アフリカ気分に浸れるカラフルな壁画
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お店の人気メニュー、トラディショナルセット Photo: courtesy of クイーンシーバ
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ビールやワインなどエチオピアのお酒を用意する Photo: courtesy of クイーンシーバ
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多様性が息づく東京の魅力
ソロモン氏が来日して40年ほどたった。東京の街並みも大きく変わったと話す。
「1980年代の東京は活気に満ちていました。特に新宿や渋谷にはジャズ喫茶やライブハウスが立ち並び、さまざまな国の音楽が鳴り響いていました。しかし再開発が進むにつれ街が均質化したように感じます。ただ、それも新しいものが生まれる東京の面白さだと感じています」
街の表情が変わったものの、東京の食文化はさらに豊かさを増しているという。
「私が来日した頃、外国料理といえば中華やイタリアンくらいでした。だけど、今はどんな国の料理も食べられる。そんな東京の多様性は、異文化が混ざり合う大都市ならではの魅力だと思います」
文化を伝えるレストランという舞台
ソロモン氏にとってクイーンシーバは単なる飲食店ではない。東京に母国の文化を伝えるための場所となっているという。
「エチオピア料理をきっかけに、音楽や会話を楽しんでほしい。エチオピアなどアフリカでは、隣の席の人と友達になることは多い。そういう文化を体験して楽しんでもらいたいです」
世界各国の食文化が集う東京。その中で、クイーンシーバは単なるレストランの枠を超え、文化の多様性を体感できる場所となっている。ソロモン氏の変わらぬ信念が、東京という都市の多文化共生の一端を支えている。
ソロモン
写真/藤島亮